左の髪を切り落とした。
もうすぐ胸まで届こうとしていた髪は、左側だけ不自然に短くなってしまった。

「これでいいの」

私は強く頷いて鋏を握り直す。
今日で終わりだ。
何もかも終わって、私はやっと楽になれるのだ。
 
 
片方だけ切り落とした髪が足下に散らばっている。
その上に落ちる自分の影が、声だけを上げて笑っていた。
 
「もうとっくに終わってるじゃない。髪が伸びるずっと前から」
 
2017/07/29(土) 02:51 [003] PERMALINK COM(0) TB(0)
 
昔、とても好きな人がいた。
彼に会った最後の日のことを、私はよく覚えていない。

笑って皆に手を振って帰って行ったことだけは覚えてる。
その時も、私とだけは目を合わせなかった。
当然だと思った。
私は、それだけのことをしてしまったのだから。


「もう二度と会えないね」

私の考えていることを見透かしているかのように彼が言う。
あの日から、彼はずっと私の隣にいる。
もちろんこれは幻だ。私以外の人間には見えない。

「あなたがいるからいいの」

彼が羽根のように軽い手で私の髪を撫でる。
私にしか見えない彼は、全て忘れて水に流したかのように私に優しい。
あの日終わるはずだった私の恋は、今もこうやって幽霊を相手に続いている。

私はいつまでも最終回を迎えられない。
 
2017/06/22(木) 22:36 [003] PERMALINK COM(0) TB(0)
 
その日私は、いつもより遠くに出かけた。
特に理由は無く、ただ少し遠くまで散歩したいと思ったからだ。
そして帰り道、迷って知らない場所にたどり着いてしまった。


2時間ほど彷徨ったが、どうしても帰り道が分からないので、諦めて道を尋ねることにした。
幸い、人は何人かいる。
その中で、後姿が昔好きだった人に似ている男性がいたので、何となくその人に声をかけた。

「あの、すみません。道をお尋ねしたいのですが」

声をかけると、男性がぱっと振り向いた。
その顔を見て、私は驚いた。
振り向いたのは、ずっと会いたいと願っていたあの人だったのだ。

「ずっと会いたかった」

こんな奇跡のようなことがあるなんて。
嬉しさのあまり、思わず彼に抱きついてしまった。
すると彼が「俺も」と言って、優しく私の髪を撫でた。

「家、すぐそこなんだ。お茶でも飲んで行けよ」


私は喜んで彼に着いて行った。
彼の家は本当にすぐ近くの、3階建ての小さなアパートメントの最上階にあった。

「何もないけど、びっくりするなよ」

そう言いながら彼が鍵を開けて先に入る。
本当に何もない部屋だった。
備え付けと思われる電化製品以外は、家具も、ベッドも、カーテンさえ無い。
物らしい物といえば、床にスーツケースとバックパックが一つずつあるだけだった。

「引っ越しでもするの?」

彼があいまいに頷いて、冷蔵庫からペットボトルを取り出す。

「明日から、海外に行くんだよ、俺」
「いつまで?」
「たぶん、一年くらいかな」

そんな、やっと会えたのに。
そう言いたかったが、彼が微笑みながら私の頭を撫でたので言えなかった。

「帰ってきたら、教えてね」
「おう」


私はお茶を一杯だけ飲んで、離れられなくなる前に部屋を出た。
階段を下りて振り返ると、彼がベランダに出て手を振っていた。
目を細めて手を振る彼に、声を張り上げて訊ねる。

「また会える?」

もうこれっきり二度と会えないのではないかと不安だった。
だけど彼は笑って頷いた。

「当たり前だろ。だって、これは全部お前の夢なんだから」


一瞬で視界が暗転する。
そうだ、全部夢だったんだ。

いつも、彼と別れるところで目が覚める。
目が覚めると彼はいない。
こんなことがもう15年続いている。


だけど何もつらくない。
もう二度と会えないから、こんなにも安心して好きでいられるのだ。

「これが『永遠』なんだわ」

彼の記憶をなぞりながら、私は二度と変わらない永遠を噛みしめた。
 
2017/06/20(火) 22:42 [003] PERMALINK COM(0) TB(0)
 

『芝居、やってます』

薄暗い路地の入り口に、一枚の地味なチラシが貼られていた。
文字の下には、不思議なイラストと、劇場までの簡単な地図が描かれている。
劇団名と演目らしきものも書かれているが、雨で濡れたのかその部分だけ文字が読めなくなっていた。

どうやらこの路地の奥に劇場があるらしい。
今日はもう何も予定が無いので、暇つぶしに芝居を観て行くことにした。


劇場は、廃墟のようなテナントビルの地下にあった。
いっそう薄暗い階段を降りて鉄製の扉を開くとすぐに受付があり、
「芝居を観たい」と告げると、受付の女性が「1500円です」と言いながらチケットの半券を差し出した。

入場料を払い、劇場に入る。
劇場は想像していたよりも広くて、少し驚いた。
私の他に観客はいないらしい。
椅子に座って数分で客席の照明が落ち、芝居が始まった。


舞台に現れたのは、痩せた若い男が一人だけだった。
男は赤い林檎を手に持っていた。
そして林檎を一口かじると、客席に向かって声を上げた。

「ようこそ、僕たちのエデンへ」

それから男は詩のような台詞を、舞台を動き回りながら喋り続けた。
うつろな目で淡々と台詞を喋る彼はひどく狂気じみていて、
これが芝居なのか、ただ狂人が独り言を喋っているだけなのか分からなかった。

芝居の中で、男は何度もアニーという名前を叫んだ。
これが "アニー" への恋文を綴った話なのだということを、私は芝居の終盤になってやっと理解した。

「アニー、どうか返事をしておくれ。僕はずっと君を待ってるんだ。
 君を見つけられたら、真っ先にこの林檎を君にあげようと、毎日こうして待ってるんだよ」


芝居が終わると、男が舞台から降りてこちらに近付いて来た。

「今日は僕の芝居を観てくれてありがとう」
「偶然チラシを見て来たの。面白かったわ」
「それは良かった。楽しんでもらえたなら何よりです」

男は舞台で演じている時とはまるで別人のように穏やかだった。
だが私には分かる。
彼にとって、この穏やかさこそ "演技" なのだ。
その証拠に、こうして話している間もさっき舞台でかじった林檎をずっと手放さない。

「ところで、あなたの名前をお聞きしても?」

ギラギラとした目で彼が尋ねる。
私は苦笑して、首を横に振った。

「私はアニーじゃないわ」
 
2017/06/06(火) 23:36 [003] PERMALINK COM(0) TB(0)
 
私達は真夜中の渋谷を、一晩中キスをしながら歩いた。
ガードレールの脇で、電柱の影で、自販機が光る路地裏で。
信号が青になったっておかまいなし。
私達は横断歩道の真ん中でだって立ち止まってキスをした。
誰もいない。車も通らない。
今夜、この街は、私達だけの物なのだ。


もうすぐ夜が明ける。
踏切の手前で、カンカンと音が鳴ったので立ち止まった。
隣を見ると、さっきまで手を繋いでいた彼女が、いつの間にか消えていた。

目の前を電車が通り過ぎる。
遮断機が上がった。
踏切の向こうで彼女が笑っている。
私は彼女に駆け寄り、この夜 186回目のキスをした。


もうすぐ夜が明ける。
 
2017/06/04(日) 04:07 [003] PERMALINK COM(0) TB(0)