『芝居、やってます』
薄暗い路地の入り口に、一枚の地味なチラシが貼られていた。
文字の下には、不思議なイラストと、劇場までの簡単な地図が描かれている。
劇団名と演目らしきものも書かれているが、雨で濡れたのかその部分だけ文字が読めなくなっていた。
どうやらこの路地の奥に劇場があるらしい。
今日はもう何も予定が無いので、暇つぶしに芝居を観て行くことにした。
劇場は、廃墟のようなテナントビルの地下にあった。
いっそう薄暗い階段を降りて鉄製の扉を開くとすぐに受付があり、
「芝居を観たい」と告げると、受付の女性が「1500円です」と言いながらチケットの半券を差し出した。
入場料を払い、劇場に入る。
劇場は想像していたよりも広くて、少し驚いた。
私の他に観客はいないらしい。
椅子に座って数分で客席の照明が落ち、芝居が始まった。
舞台に現れたのは、痩せた若い男が一人だけだった。
男は赤い林檎を手に持っていた。
そして林檎を一口かじると、客席に向かって声を上げた。
「ようこそ、僕たちのエデンへ」
それから男は詩のような台詞を、舞台を動き回りながら喋り続けた。
うつろな目で淡々と台詞を喋る彼はひどく狂気じみていて、
これが芝居なのか、ただ狂人が独り言を喋っているだけなのか分からなかった。
芝居の中で、男は何度もアニーという名前を叫んだ。
これが "アニー" への恋文を綴った話なのだということを、私は芝居の終盤になってやっと理解した。
「アニー、どうか返事をしておくれ。僕はずっと君を待ってるんだ。
君を見つけられたら、真っ先にこの林檎を君にあげようと、毎日こうして待ってるんだよ」
芝居が終わると、男が舞台から降りてこちらに近付いて来た。
「今日は僕の芝居を観てくれてありがとう」
「偶然チラシを見て来たの。面白かったわ」
「それは良かった。楽しんでもらえたなら何よりです」
男は舞台で演じている時とはまるで別人のように穏やかだった。
だが私には分かる。
彼にとって、この穏やかさこそ "演技" なのだ。
その証拠に、こうして話している間もさっき舞台でかじった林檎をずっと手放さない。
「ところで、あなたの名前をお聞きしても?」
ギラギラとした目で彼が尋ねる。
私は苦笑して、首を横に振った。
「私はアニーじゃないわ」
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