一か月前、私は彼に言った。
「来月、私の誕生日なの。覚えておいてね」
彼は「もちろん」と返事をした。
一週間前、私は彼に言った。
「来週、私の誕生日なの。覚えておいてね」
彼は「わかってる」と返事をした。
前日、私は彼に言った。
「明日、私の誕生日なの。覚えておいてね」
彼は小さく「ああ」と返事をした。
今日、私はつづら折りの坂道を歩きながら彼を探していた。
家から持ってきた氷水のバケツがひどく重かったが、
昨日の私の苦しみに比べれば、こんなものは苦痛ですらなかった。
思った通り、彼はいつも仕事場にしている喫茶店にいた。
今日も珈琲一杯で何時間も粘って仕事をしていたのだろう。
遠目でも灰皿に吸い殻の山が出来ているのが分かる。
「昨日、私の誕生日だったの」
すぐ側に立ち、彼に告げる。
彼は顔も上げず、ああそう、と気のない返事をした。
「覚えておいてねって言ったのに」
私は氷水のバケツを持ち上げ、彼の頭上を目がけて思いっきり振り下ろした。
バケツの中身は見事彼とテーブルの上のMacBookにクリーンヒットした。
彼の自慢のMacBookがバチバチと放電している。
ようやく彼が顔を上げた。
彼は今にも泣きそうな顔をしていた。
「泣きたいのは私の方よ」
私は空になったバケツを持って、うなだれる彼を放って店を出た。
彼はまもなく新しいMacBookを迎え、その誕生日を祝うだろう。
つづら折りの坂道を登りながら、私は生まれ変わった一日目を始めようと思った。
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